月劫アサト。ごく普通の少年…であった、可哀想な人間。
高校に通っていた穏やかな性格の彼は、少々目がよかった。
視力の問題ではなく、ほんの少しだけ……見えてはいけないものが見えた。
この世ならざるものを視る。別にそれだけならよくある話、ただの霊感少年だ。
そんな彼はある日のこと、うっかり目にしてしまった。
得体の知れない何かを。一目見ただけで精神が揺さぶられるような、何か。
玲宵リオンを。その、本来の姿を。
それ以来、彼は完全に気が触れてしまっていた。
常に湧き上がる苛立ちや怒り、憎悪は留まることを知らない。
制御の利かぬ感情は、彼から人格を削り取る。
かつての穏やかさは見る影もなく、
止まらない感情を原動力に人を傷つけぬよう抑えることで精一杯である。
会話もままならず、狂気と戦い続けている。
すべてが狂ったあの日から、終わりなき戦いを続けている。
ただ一度、あんなものを視たせいで、人の道さえも外れてしまった。
ただただ不運だった彼は、歌に乗せられた言葉を介し、
必死に抑えた激情を叫んでいる。
ある日のこと。
精神的な負担が限界を迎えた、ある日のこと。
彼は人格を生み出した。
以前から度々記憶の欠落があることを不安に思っていた彼だったが、
原因は自覚しないうちに新たな人格を生み出してしまっていたことだった。
彼は、自身の精神を守るため生まれたもう一人の自分のことを知らない。
別人格として存在している月劫アサトが活動している間、本来の月劫アサトに意識はなく、記憶も残らない。そのため、本来の彼は自分の知らない何かが起こっていることに酷く恐怖している。
別人格の彼は穏やかで、本来の、リオンと遭遇する前の彼と何ら変わらない優しい少年である。
そのため、主人格である自分が楽に暮らせるよう、人を殺めることを厭わない。
目を覚ました主人格が、その手を汚した身に覚えのない血液に、罪に怯えることに気が付かないまま。
主人格と別人格の交代は制御不能。意思疎通も不可能。
主人格は、己の与り知らぬことが起こっていることに恐怖する。
別人格は、自分は身代わりに過ぎぬことを自覚し、目覚めない主人格に存在を返したいと憂う。
ひとつの体に宿ったふたりは、すれ違う。
しかし、それでも。彼は成し遂げた。強い意志をもって、自らの不運な運命を打ち破ったのだ。
結局はあの化物の手を借りはしたが、それだってどれほどの勇気が必要だったことか。
彼はその意志で、自ら望んで、人であることを止めたのだ。
友人たちと共に笑い合って過ごすために。僅かな時間であろうと、何にも悩まされることなく穏やかな暮らしをするために。
犯した罪は消えない。それでも、今だけは。この穏やかな日々だけは過ごさせてほしい。
いつかこの生活が終わったら、罪滅ぼしをするから。少しだけ猶予をください。
永劫の未来の果ての果て、たった一人で歩み続けることになろうとも、
今、笑い合いたかったから。それでいいと思ったのだ。